五箇条の御誓文とは?発布日・5つの条文の現代語訳・起草者と五榜の掲示を徹底解説【2026年版】
五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)は、1868年4月6日(慶応4年3月14日)、明治天皇が京都御所の紫宸殿で神々に誓う形式で発表した、明治新政府の基本方針です。明治維新によって新しい政治体制が動き始めるなか、政府が目指す国家のあり方を五つの条文にまとめた歴史的な宣言でした。 (あわせて読みたい:Snow Manの舘様(宮舘涼太)2026最新情報!熱愛報道・炎上の経緯と噂の真相を徹底解説)
その内容は、広く意見を集めて政治を決めること、身分の上下を超えて協力すること、庶民までそれぞれの志を実現できる社会を目指すこと、古い悪習を改めること、世界から知識を取り入れることです。起草には由利公正、福岡孝弟、木戸孝允が関わり、明治天皇が誓約する形で公表されました。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 発布日:1868年4月6日(慶応4年3月14日)。明治天皇が紫宸殿で神々に誓う形式で発表した。
- 5つの条文:公議の尊重、国家運営における協力、庶民の志、旧習の打破、世界の知識の導入を掲げた。
- 起草者:由利公正が原案を作り、福岡孝弟が修正し、木戸孝允がさらに加筆・修正した。
- 五榜の掲示との違い:御誓文が新政府の基本方針であるのに対し、五榜の掲示は民衆に守らせる規則や禁令だった。
- 歴史的意義:明治維新の国是を示し、後の立憲政治や議会開設をめぐる議論にもつながる政治理念を提示した。
【基本知識】五箇条の御誓文とは?1868年の発布日と成立の背景
五箇条の御誓文は、明治新政府が発足したばかりの時期に、今後の政治と国家運営の方向性を明らかにするために示した五つの基本原則です。
単なる天皇の命令や一般向けの法律ではありません。新しい政権がどのような考え方に基づいて国を運営するのかを、天皇が神々に誓うという儀式を通じて内外に示した政治的な宣言でした。
五箇条の御誓文はいつ発布された?
発布日は1868年4月6日、旧暦では慶応4年3月14日です。当時の新政府は、京都御所の紫宸殿(南殿)で儀式を行い、明治天皇が公卿や諸侯などの群臣とともに天地神明に誓う形式を取りました。
国立公文書館の歴史資料によると、この日に発せられた御誓文は、明治新政府の基本方針を示す文書として記録されています。
また、宮内庁が紹介する京都御所の儀式に関する資料では、当日の式次第についても説明されています。三条実美が祭文を奏し、神前での儀式の後に御誓文を奉読するという形式でした。
注目すべきなのは、御誓文が単に政府内部で決定された政策文書ではなく、天皇が神々に誓約するという宗教的・政治的な形式を採用したことです。当時の新政府にとって、政権交代の正統性と新しい国家方針を同時に示す意味がありました。
なぜ五箇条の御誓文が必要だったのか
背景にあったのは、明治維新による政治体制の大転換です。
1867年の大政奉還と王政復古の大号令を経て、徳川幕府に代わる新しい政府が成立しました。しかし、政治の実権や各藩の利害関係はすぐに整理されたわけではありません。さらに、戊辰戦争が続くなかで、国家の統一と新政権の安定が急務となっていました。
新政府には、旧幕府とは異なる国家運営の原則を示す必要がありました。諸藩や公家、武士、庶民を含めた国内の人々に、新しい政治の方向性を共有させることが課題だったのです。
また、欧米諸国との外交関係が重要性を増していた時代でもありました。従来の制度や慣習にとらわれず、海外の知識や制度を学ぶ姿勢を打ち出すことも、新国家の課題でした。
こうした事情を背景に、御誓文は国家運営の基本原則を五つに整理しました。
「国是を定める」という言葉に込められた意味
御誓文に付随する誓約文には、「大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス」という趣旨が記されています。
国是とは、国家が進むべき基本的な方向性や政治上の原則を意味します。つまり五箇条の御誓文は、新政府がどのような国を築くのかを示す国是の宣言だったのです。
ここで重要なのは、五箇条の御誓文が現在の日本国憲法のような最高法規ではないという点です。国民の権利や政治制度を具体的に規定する憲法ではなく、明治政府が掲げた政治理念・施政方針として理解する必要があります。

【全文と現代語訳】五箇条の御誓文の5つの条文をわかりやすく解説
五箇条の御誓文を理解するうえで欠かせないのが、五つの条文の内容です。原文には当時の漢文調の表現や難しい言葉が使われていますが、現代語に置き換えると、新政府が目指した政治の方向性が見えてきます。
第一条:広く会議を興し、万機公論に決すべし
原文:
一、廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ
現代語訳:広く会議を開き、政治に関する重要な事柄は、多くの人々の公正な議論によって決定するべきである。
第一条は、五箇条の御誓文のなかでも特に知られている条文です。「万機」とは政治上のあらゆる重要事項、「公論」とは個人の都合や一部の権力者の判断に偏らない、公正な議論を意味します。
この条文には、限られた人物だけで政治を決めるのではなく、広く意見を集めて国の方針を決めようとする考え方が示されています。
明治維新以前の幕藩体制から新しい政治制度へ移行する時期に、公議を尊重する方針を掲げたことには大きな意味がありました。
ただし、ここでいう会議が、現代の国会や国民による直接選挙を意味していたわけではありません。政治参加の範囲や制度の具体像は、後の政治改革に委ねられていました。
第二条:上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし
原文:
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フベシ
現代語訳:身分や立場の上下を超えて心を一つにし、国の政治や経済の運営を積極的に進めるべきである。
「経綸」とは、国の政治や経済を計画的に整え、運営することです。
この条文が示すのは、新しい国づくりには、政府の上層部だけでなく、さまざまな立場の人々が協力する必要があるという考え方です。
明治維新によって、それまでの身分秩序や政治的な仕組みが大きく変わろうとしていました。旧来の対立を乗り越え、国家運営に向けて力を結集することが求められていたのです。
第一条が政治の意思決定方法を示しているのに対し、第二条は、その政治を実際に動かすための協力体制を強調しています。
第三条:官武一途庶民に至るまで、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す
原文:
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦ザラシメン事ヲ要ス
現代語訳:公家や武士、政府に仕える人々から一般の庶民に至るまで、それぞれが自分の志を実現できるようにし、人々の意欲が失われない社会にすることが大切である。
第三条は、人々の意欲や能力を国家の発展に生かそうとする考え方を示しています。
「官武」は官僚や武士などを指し、「庶民」は一般の人々を意味します。つまり、特定の身分や階層だけでなく、幅広い人々がそれぞれの役割を果たせる社会を目指していました。
「人心をして倦まざらしめん」とは、人々の心が疲れたり、意欲を失ったりしないようにするという意味です。
身分制度の大きな転換期に、庶民の志まで条文に盛り込まれたことは注目に値します。ただし、これは現代の基本的人権や職業選択の自由をそのまま保障する規定ではありません。あくまで当時の国家運営における理念として読む必要があります。
第四条:旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし
原文:
一、舊来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ
現代語訳:昔から続いてきた悪い慣習を改め、世界に通用する普遍的で正しい道理に基づいて政治を行うべきである。
「陋習」とは、古くから続いている好ましくない習慣や制度のことです。「天地の公道」は、特定の地域や権力者の都合に左右されない、普遍的な道理を意味します。
この条文には、旧幕府時代の仕組みや慣習を無条件に引き継ぐのではなく、時代に合わなくなったものを改めようとする改革の姿勢が表れています。
ただし、古いものをすべて否定するという意味ではありません。問題とされたのは、あくまで新しい国家の発展を妨げる悪習です。
近代国家への移行を目指した明治政府にとって、従来の価値観を見直し、より広い視野から制度を整えることが重要でした。
第五条:智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし
原文:
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ
現代語訳:世界各国から幅広い知識や技術を学び、それを生かして国家の基盤を大いに発展させるべきである。
第五条は、海外から知識を取り入れることの重要性を示しています。
「智識」は知識や学問、技術などを意味します。「皇基」は天皇を中心とする国家の基盤を指す言葉です。「振起」は勢いを盛んにすることを意味します。
幕末の日本は、欧米諸国との外交関係や軍事・産業技術の差に直面していました。新政府が国を発展させるためには、海外の優れた知識や制度を積極的に学ぶ必要があったのです。
この方針は、後の岩倉使節団の派遣や、明治初期の制度改革、教育・産業の近代化を考えるうえでも重要な理念です。
なお、第五条は単純に外国の制度をすべて受け入れるという意味ではありません。世界の知識を取り入れながら、自国の基盤を強化するという考え方が中心にあります。
5つの条文を一目で理解するための一覧
五箇条の御誓文は、個別の政策を細かく指定するのではなく、国家運営の基本的な考え方を五つの視点から示したものです。
- 第一条:政治の意思決定に公論を取り入れる。
- 第二条:立場の違いを超えて国家運営に協力する。
- 第三条:幅広い人々の志や意欲を生かす。
- 第四条:時代に合わない悪習を改める。
- 第五条:世界の知識を学び、国家の基盤を強化する。
五つをまとめると、政治の開放性、社会の協力、個人の意欲、制度改革、国際的な学習という、近代国家の形成に必要な課題が並んでいます。
【起草者を徹底解説】五箇条の御誓文は誰が作った?由利公正・福岡孝弟・木戸孝允の役割
五箇条の御誓文について、特に誤解されやすいのが起草者の問題です。
明治天皇の名前と結び付けて記憶されることが多いものの、条文を最初に考案したのは明治天皇ではありません。複数の政治家が草案を作り、内容や形式を修正する過程を経て成立しました。
宮内庁書陵部の史料解説やアジア歴史資料センターの解説によると、原案を作ったのは由利公正で、その後、福岡孝弟が修正し、木戸孝允がさらに手を加えています。
由利公正:最初の原案を起草した人物
由利公正(ゆり・きみまさ)は、福井藩出身の政治家で、旧名を三岡八郎といいます。
新政府の参与として活動し、1868年1月ごろ、政治の意思決定に会議を取り入れる考え方をまとめた「議事之体大意」を作成しました。これが五箇条の御誓文の原案につながります。
由利の構想では、会議によって国の重要事項を決めるという公議の考え方が重視されていました。幕府に代わる新しい政治体制を整えるうえで、特定の権力者だけに依存しない意思決定の仕組みを構想していたのです。
福井県の歴史資料でも、由利公正の草案が御誓文成立の出発点となったことが紹介されています。
福岡孝弟:由利案を修正した土佐藩出身の参与
福岡孝弟(ふくおか・たかちか)は、土佐藩出身の政治家です。
由利公正の原案を修正し、会議の構想や政治運営の原則を整理しました。福岡案では、諸侯が集まって国政を議論する「列侯会議」の考え方が盛り込まれていたとされています。
当時の新政府には、旧幕府の政治体制をどのように置き換えるのかという問題がありました。諸藩の大名を政治に参加させる構想は、そうした政治的な状況を反映したものです。
しかし、天皇と諸侯が会盟する形式については異論もあり、最終的な儀式の形式をめぐって調整が進められました。
木戸孝允:最終案を整え、誓約の形式を提案した人物
木戸孝允(きど・たかよし)は、長州藩出身の維新の中心人物で、明治新政府の成立に大きく関わりました。
木戸は福岡案をさらに修正し、天皇が群臣を率いて神々に誓うという形式を提案しました。
条文面でも重要な変更を加えています。代表的なものが、第一条に関係する「列侯会議ヲ興シ」という表現を「広ク会議ヲ興シ」へと改めたことです。
この修正によって、会議の参加者を大名に限定する印象が弱まり、より広い公議の理念が打ち出されました。また、木戸は「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」という条文を加えるなど、内容の整理にも関わっています。
宮内庁書陵部が公開する木戸孝允関係文書の展示資料には、御誓文成立に関する木戸の建言や、福岡案への加筆・修正についての解説が残されています。
明治天皇:御誓文を誓約し、国家方針として示した存在
明治天皇は、五箇条の御誓文を神々に誓う形式で発表した主体です。
天皇が紫宸殿で群臣を率いて誓約することにより、新政府の政治方針が国家の正式な基本理念として示されました。
したがって、明治天皇は御誓文の成立と発布において極めて重要な存在ですが、原案の起草者と混同してはいけません。
五箇条の御誓文に関わった人物の関係一覧
| 人物 | 出身・立場 | 主な役割 | 成立過程での位置付け |
|---|---|---|---|
| 由利公正 | 福井藩出身・新政府参与 | 原案の起草 | 「議事之体大意」を作成し、公議を重視する基本構想を提示 |
| 福岡孝弟 | 土佐藩出身・新政府参与 | 原案の修正 | 由利案を整理し、列侯会議などの構想を盛り込む |
| 木戸孝允 | 長州藩出身・維新の政治家 | 最終案の修正 | 公議の範囲や条文を修正し、神前での誓約形式を提案 |
| 明治天皇 | 明治政府の天皇 | 誓約・発布 | 紫宸殿で群臣を率いて神々に誓い、国家方針として示す |
| 三条実美 | 公家・新政府の要職 | 儀式の進行 | 当日の儀式で祭文を奏し、御誓文を奉読 |
このように、五箇条の御誓文は一人の人物が単独で作った文書ではありません。由利公正の原案を出発点に、福岡孝弟と木戸孝允が政治的な調整を重ね、明治天皇の誓約によって国家の基本方針として発表されたものです。
宮内庁所蔵資料から分かる成立過程の興味深い事実
宮内庁が紹介する有栖川宮幟仁親王筆の五箇条御誓文の控えには、箇条書きの冒頭を示す「一」が六条分記され、最後の条文を削除した痕跡が残されています。
これは、現在知られる五つの条文が最初から固定されていたわけではなく、成立過程で内容が整理されていったことを示す興味深い史料です。
完成した文書だけでなく、草案や修正の痕跡を見ることで、明治新政府が国の基本方針をどのようにまとめたのかが具体的に理解できます。

【混同注意】五箇条の御誓文と五榜の掲示の違いとは?発布日と内容を比較
五箇条の御誓文と混同されやすい歴史用語に「五榜の掲示(ごぼうのけいじ)」があります。
どちらも1868年の明治新政府によって出された五つの項目からなる文書ですが、目的も対象も大きく異なります。
五箇条の御誓文は政府の基本方針、五榜の掲示は民衆に守らせる規則や禁令です。
五榜の掲示は1868年3月15日に発表された
五箇条の御誓文が発せられたのは慶応4年3月14日です。その翌日の3月15日、明治新政府は五榜の掲示を出しました。
五榜とは五つの高札を意味します。高札とは、幕府や政府が法令・禁令などを人々に知らせるため、街道や人の集まる場所などに掲示した札のことです。
国立公文書館や政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所が運営する「世界と日本」の史料データベースには、1868年3月15日付の五榜の掲示の原文が収録されています。
五榜の掲示に書かれた五つの内容
五榜の掲示は、当時の社会秩序や政府の政策を民衆に徹底させることを目的としていました。
主な内容は次のとおりです。
- 第一札:五倫の道徳を守り、殺人・放火・窃盗などを禁じること。
- 第二札:徒党・強訴・逃散など、集団での抗議や離村を禁じること。
- 第三札:キリスト教や邪宗門を禁止すること。
- 第四札:外国との交際において万国公法を守り、外国人への暴行を禁じること。
- 第五札:士民が本国を無断で離れることを禁止すること。
第一札から第三札は永年掲示を前提とした「定」、第四札と第五札は一時的な事項を示す「覚」として扱われました。
特に第三札のキリスト教禁止は、開国後の日本が外国との関係を深めようとするなかで、外交上の問題にもつながりました。キリスト教禁制は1873年に解除され、五榜の掲示自体も明治初期に撤廃されていきます。
両者の最大の違いは「誰に何を示したか」
五箇条の御誓文と五榜の掲示は、発表された時期がほぼ連続しているにもかかわらず、内容には大きな違いがあります。
御誓文は、政府がどのような国づくりを進めるのかを示した理念的な文書です。一方、五榜の掲示は、一般の人々に具体的な行動上の規則を守らせるための行政的な掲示でした。
特に注目したいのは、御誓文が公論や旧習の打破、世界の知識の導入を掲げる一方で、五榜の掲示にはキリスト教禁止や集団行動の制限など、江戸幕府時代の民衆統制を引き継ぐ内容が残されていたことです。
つまり、明治新政府は新しい国家の理念を掲げながら、実際の社会統治では従来型の規制も利用していました。
この二つを並べて読むと、明治維新が単純に古い体制から自由で民主的な体制へ一気に変わったわけではないことが分かります。
【明治維新への影響】五箇条の御誓文が果たした役割と歴史的意義
五箇条の御誓文は、明治維新の政治理念を示した重要な文書です。しかし、その影響を理解するには、条文が掲げた理想と、実際の政治制度が変化していく過程を分けて考える必要があります。
新政府の政治方針を国内に示した
明治維新直後の日本では、政治体制の再編が進められていました。旧幕府の権力構造を解体し、新政府のもとに政治を統合するには、国家として共有する基本方針が必要でした。
五箇条の御誓文は、その共通方針を示す役割を果たしました。
特に第一条の公論尊重は、従来の身分や政治的な立場だけで物事を決めるのではなく、会議を通じて国政の方向性を決めようとする理念を表しています。
第二条と第三条は、国内の人々の協力や意欲を国家運営に結び付ける考え方を示し、第四条と第五条は、改革と国際的な知識の導入を促す方向性を打ち出しました。
自由民権運動や議会開設をめぐる議論との関係
第一条にある「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という考え方は、後の立憲政治や議会開設をめぐる議論を考えるうえでも重要です。
ただし、御誓文が発布された時点で、国民が自由に選挙で代表を選ぶ制度が成立したわけではありません。
明治政府は当初、議会開設や憲法制定を直ちに実現したわけではなく、政治参加の範囲や制度のあり方をめぐって、その後も議論が続きました。
1874年には板垣退助らが民撰議院設立建白書を提出し、国民の代表による議会の開設を求めました。この動きは自由民権運動の出発点の一つとなります。
さらに1875年には立憲政体樹立の詔が発せられ、1881年には国会開設の勅諭が出されました。そして1889年に大日本帝国憲法が発布され、1890年に帝国議会が開設されます。
この流れを見ると、御誓文に掲げられた公議の理念と、実際の議会制度の確立との間には長い時間と政治的な交渉があったことが分かります。
近代化と国際社会への対応を後押しした
第五条の「智識を世界に求め」という言葉は、明治政府が国際社会を意識した国家づくりを進めていたことを示しています。
当時の日本は、欧米諸国の軍事力、産業技術、教育制度、政治制度などを学ぶ必要に迫られていました。
海外の知識を取り入れ、国家の基盤を強化するという理念は、明治期の近代化政策とも方向性を共有しています。
もちろん、御誓文の第五条だけが、その後の近代化政策を生み出したわけではありません。しかし、海外から学ぶ姿勢を国家の基本方針として掲げたことは、明治政府の改革路線を象徴する意味を持っていました。
1946年の新日本建設に関する詔書でも再び引用された
五箇条の御誓文には、明治時代だけでなく、戦後日本とのつながりもあります。
1946年1月1日に発表された「新日本建設に関する詔書」、いわゆる人間宣言では、冒頭に明治天皇の五箇条の御誓文が掲げられました。
国立公文書館の解説によれば、この詔書は日本の民主主義の歴史に触れ、国民とともに新しい日本を建設することをうたったものです。
そこでは、御誓文の公論尊重や旧習の打破といった理念が、新しい時代の国家建設を考える際の歴史的な文脈として再び取り上げられました。
1868年の御誓文と1946年の詔書では、政治体制も社会状況も異なります。それでも、公論を重んじる姿勢や旧来の慣習を見直すという考え方が、時代を超えて参照された点は重要です。

【2026年に読み直す】五箇条の御誓文の現代的意義と誤解されやすいポイント
2026年に五箇条の御誓文を読み直す意味は、単に明治時代の歴史を覚えることだけではありません。政治参加、社会の協力、制度改革、国際的な学習というテーマは、現在の社会を考えるうえでも多くの示唆を与えます。
第一条の公論は、意見の違いを前提とした政治の原則
第一条が示す「万機公論に決すべし」という考え方は、政治における合意形成の重要性を示しています。
社会には異なる価値観や利害を持つ人々が存在します。重要な政策を決定する際には、一部の人々の意見だけでなく、異なる立場の考え方を検討する必要があります。
現代の議会政治や民主的な意思決定に照らしても、公論を重視する姿勢には普遍的な意味があります。
ただし、1868年当時の「会議」は現代の議会制度とは異なります。歴史的な理念として評価することと、現在の民主主義制度と同一視することは区別しなければなりません。
第三条は人材の活用と社会参加を考える手掛かりになる
第三条には、官僚や武士だけでなく庶民まで、それぞれの志を実現できるようにするという考え方があります。
社会の発展には、限られた人々の能力だけでなく、多様な立場にある人々の知識や経験を生かすことが必要です。
教育や仕事、地域活動など、さまざまな分野で人々が能力を発揮できる環境を整えるという視点は、現代にも通じるものがあります。
もっとも、当時の条文は現代的な個人の権利保障を定めたものではありません。国家の発展という目的のなかで、人々の志や意欲を重視した点に歴史的な特徴があります。
第四条と第五条は、改革と国際的な視野の重要性を示す
第四条は古い悪習を改めること、第五条は世界の知識を取り入れることを掲げています。
この二つは、変化する社会に対応するための基本姿勢として読み取れます。
過去の制度を守ること自体が目的になるのではなく、現状に合わなくなった仕組みを見直すこと。そして、自分たちの社会だけに閉じこもらず、外部の知識や経験から学ぶことです。
国際交流や技術革新が進む現在でも、社会の課題を解決するには、国内外の知識を柔軟に取り入れる姿勢が欠かせません。
誤解1:五箇条の御誓文は日本初の憲法だった?
答えは違います。
五箇条の御誓文は、明治新政府が示した政治上の基本方針です。政治理念をまとめた重要な文書ですが、国家機関の権限や国民の権利を具体的に規定する憲法ではありません。
明治時代の憲法制定は、その後の政治改革を経て進められ、1889年の大日本帝国憲法発布によって具体的な憲法制度が整えられました。
誤解2:五箇条の御誓文は国民に選挙権を与えた?
これも正確ではありません。
第一条は広く会議を開き、公論によって政治を決めることを掲げていますが、国民全員に選挙権を与える規定はありません。
当時の政治参加は限定的であり、民選議院の設立や議会制度の確立には、その後の自由民権運動や政治改革が必要でした。
誤解3:明治天皇が五つの条文を自分で考えた?
明治天皇は御誓文を発表する主体となりましたが、条文の起草者ではありません。
原案は由利公正が作成し、福岡孝弟が修正し、木戸孝允がさらに手を加えました。天皇の役割は、最終的な政治方針を神々に誓う形式で示すことにありました。
【プロの結論】五箇条の御誓文は理想と現実の両面から読むべき史料
五箇条の御誓文を理解するうえで最も大切なのは、五つの条文に込められた理想だけでなく、それが発表された当時の政治的な現実も合わせて見ることです。
第一条は公論を掲げ、第三条は庶民の志に触れ、第四条と第五条は改革と国際的な学習を打ち出しました。その一方で、翌日の五榜の掲示には、民衆の行動を制限する規則やキリスト教禁止が残されていました。
この対照は、明治維新が理念だけで進んだわけではなく、旧体制からの移行、国内の秩序維持、国際関係への対応など、複雑な課題を抱えながら進められたことを物語っています。
また、五箇条の御誓文を現代の民主主義の完成形として評価するのも適切ではありません。政治参加や権利保障の制度は、その後の長い歴史のなかで形成されていきました。
歴史的な評価の判断基準としては、次の三点が重要です。
- 理念を見る:公論、協力、個人の志、改革、国際的な知識という五つの原則を理解する。
- 時代背景を見る:戊辰戦争や政権交代、旧来の民衆統制など、発布当時の現実と照らし合わせる。
- 後世への影響を見る:自由民権運動、議会開設、1946年の新日本建設に関する詔書などとの関係を考える。
この三つの視点を持つことで、五箇条の御誓文は単なる歴史の暗記事項ではなく、近代日本の国家形成を読み解くための重要な史料になります。
五箇条の御誓文に関するよくある質問(FAQ)
Q1:五箇条の御誓文は何年何月何日に発布されましたか?
A1:1868年4月6日です。旧暦では慶応4年3月14日に当たり、京都御所の紫宸殿で明治天皇が群臣を率いて神々に誓う形式で発表されました。
Q2:五箇条の御誓文を作ったのは誰ですか?
A2:由利公正が原案を起草し、福岡孝弟が修正を加え、木戸孝允がさらに加筆・修正しました。明治天皇は完成した御誓文を誓約する形で発表しました。
Q3:五箇条の御誓文の現代語訳を簡単に説明すると?
A3:政治は広く議論して決め、上下が協力し、庶民もそれぞれの志を実現できるようにする。古い悪習を改め、世界から知識を学んで国を発展させる、という意味です。
Q4:五箇条の御誓文と五榜の掲示は何が違いますか?
A4:五箇条の御誓文は明治新政府の政治理念・基本方針です。五榜の掲示は1868年3月15日に発表された五つの高札で、道徳や集団行動、キリスト教などに関する規則や禁令を民衆に示したものです。
Q5:五箇条の御誓文は日本の憲法ですか?
A5:憲法ではありません。新政府の政治運営に関する基本方針を示した宣言です。日本で近代的な憲法が発布されたのは1889年の大日本帝国憲法です。
Q6:五箇条の御誓文が現代にも持つ意味は何ですか?
A6:公論を尊重する姿勢、立場の異なる人々の協力、古い制度の見直し、世界から学ぶ姿勢などに現代的な意義があります。ただし、1868年当時の政治理念と現代の民主主義や基本的人権の制度は区別して理解する必要があります。
まとめ:五箇条の御誓文は明治維新の国づくりを示した重要史料
五箇条の御誓文は、1868年4月6日(慶応4年3月14日)に明治天皇が発表した、明治新政府の基本方針です。
五つの条文には、公論の尊重、国家運営における協力、庶民の志の実現、旧習の打破、世界の知識の導入という理念が盛り込まれました。
起草の過程では、由利公正が原案を作り、福岡孝弟が修正し、木戸孝允が最終的な調整を行いました。明治天皇は紫宸殿で群臣を率いて誓約し、国家の基本方針としてこれを示しました。
また、翌日に発表された五榜の掲示との比較からは、新政府が近代化を目指す一方で、旧来の民衆統制を引き継いでいたという歴史的な側面も見えてきます。
五箇条の御誓文は、現代の憲法や民主主義を直接定めた文書ではありません。しかし、公論を重視し、社会の改革を進め、世界から学ぼうとする理念は、現在にも通じる重要なテーマです。
2026年に改めてこの史料を読むなら、五つの条文を暗記するだけでなく、明治維新という大転換期に、誰が、どのような目的で、どんな国家を築こうとしていたのかを考えることが大切です。理念と現実の両方を捉えることが、五箇条の御誓文を正しく理解するための鍵となります。 (あわせて読みたい:【長尾謙杜のプロフィール】誕生日・年齢・出身地・血液型・メンバーカラー)
主な史料・参考資料